人類は,地球の癌細胞に過ぎないのか…。

  • 2019.02.16 Saturday
  • 21:07

JUGEMテーマ:万物の霊長と言われながらも,人間が行なっていることは何なのか。

 先ず,今回の池江選手の白血病告白の件について,一言触れておきたい。日本国内を問わず,海外からも,彼女への応援メッセージが,絶え間なく寄せられている反面で,某大臣の「金メダル候補で、日本が本当に期待している選手なので、がっかりしている。早く治療に専念して頑張ってもらいたい。また、元気な姿を見たい。1人リードする選手がいると、みんなつられて全体が盛り上がるので、その盛り上がりが若干、下火にならないか心配している。」という旨の発言に関して,各方面から批判が相次いで,「選手は,メダルを取るための駒ではない。」とか,かなり物議を醸し出しているが,自分もそういった気持ちはよく理解できる。でも,待てよとも思うのだ。正直言って,国民の関心は,メダルの獲得数,それもやっぱり世界一の称号たる,金メダルの獲得数にあるのではないのか。そう言う意味では,某大臣の正直な本音の発言を批判する者は,心の中で同様に思う以上,むしろ批判される者として,自己批判しているも同然なのではないのか,それはやはり矛盾と言っていいだろう。一番辛い彼女の気持ちを思うのなら,ここはそっと見守ってあげるのが一番なのではないのかと,そんな考えに辿り着くしかない自分である。こんな時こそ,心の中で「どうか神様,彼女に笑顔をもう一度」と願うしかないだけだ。

 将来に漠然とした不安を抱いた自分が,大学時代にその書物に出逢って以来,畏敬の念すら抱く敬愛の的である人物であり,いつもその著作はバッグの中に持ち歩き,「先生だったら,こんなときどう考えるのだろう。」と,常に空を見上げながら思いを巡らす,今は亡き文芸評論家の亀井勝一郎氏は,その広範囲に亘る知識力と血の通った奥深い洞察力で,人間研究に自己の一生を捧げた第一人者と言ってもいい。自分は広く浅くの人間ではなく,気に入ったものを深く何度でもという人間なので,先生の著作のうち特に気に入った本何冊かを,繰り返し読んでいると,自分なりにではあるが,先生が人間というものを見つめているうちに,あるテーマを常に念頭においているように思えて来たものだ。それは,一言で言えば「矛盾」,つまり,人間が如何に矛盾に満ちた存在であるのかを,いつも意識して研究をされていたかということだ。実際に,矛盾という言葉を何度となく使用しているように感じるから,それだけ,重要な用語だいうことではないのだろうか。矛盾とは,ご存知のとおり,二つの物事が食い違って,論理性に欠けることを意味するが,これは,もともと,中国の故事に由来する言葉だ。昔、中国の楚の国で、矛(ほこ)と盾(たて)とを売っていた者が、「この矛はどんなかたい盾をも突き通すことができ、この盾はどんな矛でも突き通すことができない」と誇ったが、「それではお前の矛でお前の盾を突けばどうなるか」と尋ねられて答えることができなかったという,まさに,両事成り立たずの事象を指す。先生は,決して,人間の表層部たる上物を研究していた訳ではなく,「人間とは何ぞや。」から来る,人間の内面たる心の状態を,常に見つめ続けていたのであるから,そこで,矛盾という非論理性に辿り着いたのだとしたら,何ともその心境たるや複雑ではあったのではないのかと,察せられる。だって,論旨性に裏付けられた理性こそが,人間の人間たる持ち味のはずなのだから。

 自分は,必ず,終末には行きつけのTUTAYAに行って,2枚のDVDを返してはまた2枚借りて来て鑑賞することを,習慣にしている。そして,自分に向いた心を打つ作品に出逢えた時には,いつも,その中の印象に残るセリフや場面などは,自分の頭に焼き付けておいたり,メッセージとして紙に書き留めておいたりしている。今回も,そういうものに出逢えた。「セイジ〜陸の魚〜」という,西島秀俊と森山未來が主演の映画だ。西島の秘めた陰あるクールな演技は,以前から気になってはいたのだが,この映画でも例に漏れずそれは健在だった。西島扮するセイジは,人間のまさに陰なる部分を見過ぎたがために,まるで生きながら死人のような隠遁者的生活を送っていて,そこに,たまたま放浪の旅をして回る大学生(森山)が現れ,ひょんなことから接点を持った二人が絆を深め,セイジも心を少しずつ開いて行くことで,ストーリーは進行して行く。セイジの存在感は,セリフひとつひとつからも圧巻だった。生き物は,食べて行かねば死んでしまう訳で,食こそ生存に不可欠なものであるところ,人間も例外ではなく,食べなくては生きては行けないのに,その食する行為そのものを,いや,食する行為を必要とする人間自身を,指したのか明確ではないが,「生命維持装置」と言って,仕方なげに吐き捨てた上,「一瞬でもいいから,本当の生を生きたい。」と言う。そして,動物愛護団体の女性が,人間のエゴで射殺される,弱い動物の保護のための署名を求めた際には,「人間が多過ぎるだけだ。本気でそう思うなら,自分の首でもくくれ。」と言い返すが,その反面で,「彼女が悪い訳でも何でもない。」とも,旅人に諭すように言う。この言葉には,彼の内面に存する,人間の力でも既にどうすることもできない,巨大な時のうねりのようなものに対する,何か一種のジレンマ的な感情が,読み取れる気がする。何とも,自分自身にも考えさせられるセリフだ,と感じた次第だ。また,その後のただ淡々と,ナレーションのように語られる老人のセリフも,強く印象的だ。要約すれば,こんな感じだろうか。「セイジ,人間は何のために生まれて来たのか,その本には書いてあるか。たぶん,セイジには,物事の未来が見え過ぎるのかも知れない。見え過ぎると,自分の無力さに気付き,その先には絶望しか待っていない。普通の人間は,そこまで敏感ではなく鈍感なために絶望はない。この鈍感さは,ある種,絶望を緩和してくれる鎮痛剤なのかも知れない。」と。それに,映画の中では,人間が,他の生物との共存共栄のためという崇高な理想の下,それを達成するのに阻害材料となる人間の感情を,自らの意思でもって完全に抑圧したとしたら,どうなるのだろうとの疑問も呈示しているが,それを極論して曲解すれば,場合により人間がお互いに淘汰行為に及ぶこと,すなわち,殺戮行為を是認することもあり得るのではと,思った次第だ。そうなれば,人間の心の闇を曝け出すことにもなるのではないかと,思う自分である。

 この映画は,主人公セイジの背負った深い心の傷とその暗い闇を通して,「人間は,本当はどう生きるべきなのか。」を,強く語りかけているように思える。無数の生命体を育む,この青く輝く美しい水の惑星である地球は,いくら知能が優秀であるとはいえ,人間が支配者となって,我が物顔でその大地を闊歩すべきものではないはずだ。そこでは,あらゆる生物が,生命維持のためのバランスを保って,自然界の原理に従い,その生を全うすべきなのだろう。弱肉強食という原理ですら,そのバランスに則っているのだから。それが,人間は,自分自身をこの地上の征服者と思い込み,自分の利益のみを追求した行動を取っている。過剰な森林伐採による大地の乾燥化現象やそれに基づく動植物の生息地の奪い取り,お金目当てでのこれまた過剰な動物捕獲や殺傷行為,二酸化炭素の過剰排出による地球環境温暖化現象など,人間自身の目に余る自然原理を無視した行為は,数え上げたら切りがない。そして,こういったいづれは地球の存続すらも脅かし兼ねない,詰まるところは,人間自身の首をも締める無謀とも言える,数限りない独善的行為は,収まるどころか増え続ける一方であることを考えると,人類という生命体は,その存在自体が,水の都たる地球上に発生した「癌細胞」だ,と言われても仕方がないのではないのだろうか。それは,人間に,地球の繁栄のために,特別な天賦の才が授けられ,しかしその才能が反対に,地球の存立自体を,危機にさらすものだとしたら,それこそ,まさに矛盾だろう。だから,そうならないためには,人間は今直ぐにでも覚醒して,戒めの道を歩むべきではないのだろうか。 

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